承久の乱後の幕府は、執権北条泰時の指導のもとに発展の時期を迎えた。
泰時は、執権を補佐する連署をおいて北条氏一族中の有力者をこれにあて、ついで有力な御家人や政務にすぐれたひとびと11人を評定衆に選び、執権・連署とともに幕府の最高の政務の処理や裁判にあたらせ、合議制にもとづいて政治を行った。
また1232年、泰時は貞永式目(御成敗式目)51箇条を制定して、広く御家人たちに示した。式目は頼朝依頼の先例や、道理とよばれた武士社会での慣習・道徳にもとづいて、守護や地頭の任務と権限を定め、御家人同士や御家人と荘園領主とのあいだの紛争を公平にさばく基準をあきらかにしたもので、武家の税所の体系的法典となった。
幕府の勢力範囲を対象とする式目とならんで、朝廷の支配下にはなお律令の系統をひく公家法が、また荘園領主のもとでは本所法が、またそれぞれの効力を持っていた。
しかし幕府勢力の発展につれて、公平な裁判を重視する武家法の影響は広がっていき、公家法や本所法の及ぶ土地にも武家法が与える影響がおおきくなり、その効力を持つ範囲が拡大していった。
合議制の採用や式目の制定あんど、執権政治の隆盛をもたらした泰時の院策は、孫の執権北条時頼にうけつがれた。時頼は御家人の保護に努力してその支持をかためるとともに、評定衆の会議である評定をもとにあらたに引付をおいて引付衆を任命し、御家人達の所領に関する訴訟を専門に担当させ、敏速で公正な裁判の確立に努めた。
一方で時頼は、まず前将軍の藤原頼経を京都に送り返し、1247年、三浦泰村一族をほろぼして、北条氏の地位を不動のものとし、やがて藤原将軍にかわる皇族(親王)将軍をむかえた。
こうして執権政治は時頼のもとにさらに強化されたが、同時に北条氏独裁の性格を強めていった。
平安時代後期からこのころまでの武士は開発領主の系譜をひき、先祖以来の地に土着し、所領を拡大してきた。
彼らは、河川の近くの微高地を選んで館をかまえ、周辺には堀・溝や塀をめぐらして住んでいた。館の周辺部には、国衙や荘園領主からの年貢・公事のかからない直営地をもうけ、下人や所領内の農民を使って耕作させた。そして荒野の開発を進めていき、みずからは地頭などの現地管理者として、農民から年貢を徴収して国衙や荘園領主におさめ、取り分として加徴米などの定められた収入を得ていた。
彼らは一族の子弟たちに所領をわけあたえる分割相続を原則としていたが、それぞれは一族の強い血縁的統制のもとに、宗家を首長とあおぎ、その命令にしたがった。この宗家と分家との集団を当時は一門・一家と名付け、首長である宗家の長を惣領、他を庶子とよんだ。
戦時には一門は団結して戦い、惣領が指揮官となった。平時でも、先祖の祭りや一門の氏神の祭祀は惣領の権利でもあり、義務でもあった。こうした体制を惣領制とよぶが、鎌倉時代も政治・軍事体制に惣領制を取り入れており、幕府への軍事勤務も、荘園領主・国司への年貢・公事の納入と同じく領主が責任者となって一門の庶子たちにこれを割り当て、一括して奉仕した。
庶子も御家人ではあったが、幕府とは惣領を通じて結ばれていた。
武士の生活は簡素で、みずからの地位をまもるためにも武芸を身に付けることが重要視されて、つねに犬追物・笠懸・流鏑馬や巻狩などの訓練を行った。
彼らの日常生活からうまれた「武家のならい」とか「兵の道」「弓馬の道」などとよばれる道徳は、武勇を重んじ、主人に対する献身や、一門・一家のほまれをたっとぶ精神、恥を知る態度などを特徴としており、後世の武士道の起源となった。
みずからの支配権を拡大しようとする武士たちは、荘園・公領の領主や、所領の近隣の武士とのあいだで年貢の徴収や境界の問題をめぐって紛争をおこすことが多かった。
とくに承久の乱後には、畿内・西国地方にも多くの地頭が任命され、東国出身の武士が各地にあらたな所領を持つようになったから、現地の支配権をめぐって紛争はますます拡大した。
執権政治下の幕府が、公正な裁判制度の確立に努力したのも、こうした状況に対応するためであった。
地頭の支配権拡大の動きに直面した荘園・公領の領主たちもまた、幕府にうったえて地頭の年貢未納などの動きをおさえようとした。
しかし、現地に根をおろした地頭の行動をそしすることは事実上不可能に近かったので、紛争を解決するtまえに、領主たちは地頭の荘園の管理いっさいをまかせ、一定の年貢納入だけを請け負わせる地頭請所の契約を結んだり、さらには現地の相当部分を地頭に分け与える下地中分の取り決めを行うものもあった。
幕府もまた、当事者間の取り決めによる解決をすすめたので、荘園などの現地の支配権はしだいに地頭の手に移っていった。